みなさん、こんにちは。共育LIBRARYのブログを運営しているりょーやんです。
2023年4月にブログを立ち上げました。
筆者は、2013年4月~2023年3月まで小学校の教員をやっていました。10年間です。
この傍らで、現場の経験を生かし、NPOのメンバーとして、様々な学習会を開催したり、学級経営や授業のことで困っている教員に、コツやポイントを伝えたりする活動を8年間ほど行ってきました。
共育LIBRARYでは、現場を経験した人にしか分からない、教育に関することや、筆者が勉強し、実践してきた有益な情報を伝えていきたいと思っています。
なぜ教師になったのか?
そもそも、なぜ、教師を目指したのか。それは「学校が楽しそうだから。」というほんわかとした理由でした笑
小・中・高校と学校というものが好きで、どんな子どもたちにも、学校の楽しさを伝えることができる教師になりたいと思ったことが、シンプルな理由です。
おいおい。今思うとずいぶん単純な理由だな・・・
それが確信に変わったのは、教育実習でした。教育実習では、小学校1年生を担当しました。1か月という短い期間でしたが、もう別れる日は朝から泣きっぱなしの涙、涙の終わり方。そのときに、「教師って最高だ!」と思い、さらに教師になる決意を固めたのです。
それからは、大学卒業までの間に、ボランティアに登録し、様々な小学校にサポート要員として派遣され、子どもとかかわっていました。楽しすぎて週3日だったはずが、毎日部活に参加させてもらったりしていたものです笑
そういえば、子どもと一緒に下校して、その子の玄関先で一緒にゲームをしていたときもあったな・・・
夢の教師生活がスタートしたが、厳しい現実が・・・
最高にワクワクとドキドキを抱えながらスタートした教員生活。初めて担任する子どもたちは・・・なんと6年生。
いきなり6年生!?最後の大切な1年を、何も分からない自分が受け持って大丈夫なんだろうか・・・。
そう思い、凄まじいプレッシャーが襲ってきたことを覚えています。
しかし、大学で具体的な授業のやり方を習ったわけでもない、新卒教師がうまくやれるはずがありません。例え1年目でも、担任である限りは、一人で何とかしていかなければならないのが、教育現場です。
しかも、本当は「指導教員」という新卒担当の先生がおり、クラスに入って定期的に教えてくれたり、子どもが帰った後も相談に乗ってくれたりするのですが、それが0でした。
筆者の担当者は、その学校の教務主任という全体を取り仕切るポジションの方で、指導教員を兼用しているというスタイルだったのです。
教務主任は激務です。しかも、その先生は初めて教務になったということで、とても余裕がある状況ではありません。「ごめん!忙しいからなかなかできない!」と言われ、とにかく一人で何とかしていくしかなかったのです。
ですが、新卒1年目の教師が様々工夫をしたところで、たかが知れています。
その内「先生は頼りにならない。」「他の先生が良かった。」という声が子どもたち自身から上がってくるようになりました。内心は申し訳ない気持ちでいっぱいで、「この先どうしよう・・・。」と呆然としていたものです。
しかし、そんなときに1冊の本に出会ったのです。その本には、どうすれば授業がうまくいくのか、子どもたちに指示を出すには具体的にどうすればよいのかが、事細かに書かれていました。そこから火が点いた筆者は、ひたすら本を読みまくりました。
やるしかない!やってやる!
夏休みを利用して、一気に30冊ぐらい読んだと思います。夏休みは、部活もあったのですが、それ以外の時間は全て「2学期からの授業をどうするのか」という一点に注ぎ込みました。
土日を含め、学校に行かなかったのは3日間のみです。それ以外はずっと朝から夜まで学校にこもり、一心不乱に2学期の授業ノートを作ったのです。
そして、2学期がスタート。1学期に崩れてしまったものは、そう簡単には直りません。しかし、夏休みの間に考えた授業をやってみると、少しずつ子どもたちの反応が良くなっていったのです。そこに、一筋の希望を見出しました。
そこからは、「何か一つでもいいからこの子どもたちに残したい。」「新卒のこんな頼りない教師をたくさん助けてくれた恩返しをしたい。」という思いだけで、とにかく走り続けました。
やがて、「家で先生のことを悪く言わなくなりました。」と保護者から声が届くようになり、子どもたちが、筆者の必死な姿を見て、授業や行事でも何とかしようと協力してくれるようになりました。
時効だと思うので書きますが、時には、休日も運動場で子どもと遊んでいました。保護者も一緒になって遊んでいたこともあります。それほど、子どもたちと一緒にいる時間が楽しかったのです。
とにかく1分1秒でもいいから子どもと一緒にいたかった・・・
卒業を間近にした3月は、毎朝の合唱練習の度に泣いていました。卒業式当日も、一生分の涙を流したんじゃないかというぐらい、溢れる涙が止まりませんでした。
ちなみに筆者は、運動会、学芸会、授業参観と全てで泣き崩れてしまっています笑 子どもたちからは、「先生泣きすぎ。」「そこは先生じゃなくて保護者が泣くとこでしょ?」と言われ、保護者からも「泣き虫な先生が大好きです。」と手紙をもらったことがあります笑
だって泣けてしまうんやもん。しょうがないやないか~
そんな筆者をからかっていた子どもたちも、別れの最後の1時間はお互いに泣きすぎて言葉になりませんでした。
「先生が担任で良かった。」「先生は『みんなに何も残してあげられるものがなくごめん。』って謝っていたけど、そんなことない。みんな先生で良かったって言ってたよ。」「先生は、世界一の教師です。」と温かい言葉をたくさんもらいました。「〇〇ちゃん(筆者のあだ名)は、全然教師って感じじゃなかったね笑」と手紙に書かれていましたが・・・笑
卒業後も子どもたちとの関係は続き、高校2年生になったときに、同窓会が開かれました。一人一人、自分の進路をしっかりと考え、見据えている姿を見て、またしても、感動してしまったのを覚えています。
仕事に没頭する日々
新卒1年目に「教師とは素晴らしい職業だ。」と思った筆者は、仕事に没頭していくことになります。全国の様々な研修・セミナーに出かけるようになり、少しでも効果がある教え方を学ぶようになりました。
研修・セミナーは全て土日です。それでも、年間で50~60ほどの全国の学習会に出かけました。おまけに1年で100~200冊ほど本も購入していたので、あっという間に貯金がなくなりました。常に、財布の中身との戦いだったことを覚えています。教育に投資してきたお金は、おそらく1000万円は越えていると思います。
ボーナスは速効で使い切ったなぁ~ 夏休み後にamazonで買った本代の請求が20万円分ぐらい来たときは流石にビビった・・・
そうやって、全国で結果を出している方法を学んでいく内に、少しずつ、効果がある教え方ができるようになっていきました。算数のテストで平均点が90点を毎回のように突破するようになったり、国語の漢字テストは常に平均95点以上になったり、といった具合にです。
他にも、物語の分析作文を、学級平均で原稿用紙80枚以上書いたり、水泳の泳ぐことができる距離が平均17mから400mに伸びたり、英語が学級平均で、30、40往復と話せるようになっていったりと様々な事実が生まれていきました。
そして、子どもたちが様々な課題に挑戦していきながら、自分に自信をつけていく姿を見て、また、エネルギーをもらっていたのです。
やがて、学ばせてもらった方たちから声をかけてもらい、講師として講座を担当するようになりました。NPOで困っている教員の方々に、自分の経験や知見を伝えていったのです。もちろん、自分自身も引き続き、学びながらです。
こうして、5年、7年と教員を続けていく内に、少しずつ興味の方向が変わり始めました。
どんどん明るみになる発達の特性
筆者が初めて発達障害を認識し、勉強を始めたのは、新卒2年目のときでした。2年目は1年生の担当となり、6年生を担任したときとは別の緊張感を胸にしていました。その受け持ったクラスの中に高機能自閉症の子どもがいたのです。
学校に一人で来ることができない。教室に入ると床に寝転んで寝てしまう。起こすと「ぼくは眠いんだー!!」と怒ってしまう。席に座ることができない。勉強につまずきがあると「ぼくはどうせできない!」と投げ出してしまう。そんな子どもでした。
やがて、この子も少しずつ成長していき、忘れがたい関係になっていくいのですが、それはまた別の話。この子は、3年生に進級するとき、特別支援学級に移ることになりました。このことがきっかけで「なぜこのような行動をとるのか?」と調べていくようになりました。
自閉スペクトラム症、注意欠如多動症、限局性学習症・・・・様々学んでいく内に、ある一つの疑問が浮かんできました。「ん?これは筆者自身のことじゃないのか・・・?」ということです。
オレのことやないかいっ!!
思えば、筆者は常に周りから「変わっているね。」と言われて育ってきました。中学校時代は、休み時間にいつも「かめはめ波」の練習をしたり、教室で一人で歌を熱唱していたりしました。全く恥ずかしがることなく。そのことを友達の卒業文集に書かれたほどです。「歩く19ボックス」と異名を付けられたこともあります笑
中学時もすれ違う人みんなにクスクス笑われていたな。でも、それを気にすることは全くなし!むしろ、「もっと面白くしてやろう」と思っていたな。
他にも、興味関心のない内容だと、体が重たくなり、すごい睡魔に襲われます。お陰で高校の授業はほとんど起きることができずに寝ていましたし、教員になってからも、校長先生との1対1の面談で寝てしまったこともあります・・・(もちろん、叱られました笑)
また、大学卒業後は、教員にすぐにはならず、1年間海外をフラフラしていた時期もありました。それも、「海外に行きたい!」と突然思い立ったからです。思いついたら、体が勝手に動いてしまうのです。
1年間で16か国ぐらい、留学やバックパッカーでフラフラとあてもなくさまよい歩いたのは、今となってはいい経験。
だからこそ、教員になってからも、記憶する力が極端に低く、なかなか仕事の仕方を覚えることができず、周りに迷惑をかけていました。職員室の机の上も整理整頓が全然できず、普通の人が1時間で終わる仕事も2時間、3時間とかかっていました。
「なぜ、他の人はあんなに速く、普通に仕事ができるのだろう・・・。」と常々疑問に思っていたことが、「ようやく謎が解けた。」といった感覚だったと思います。だからこそ、教育の中でも、発達に凸凹を抱える子どもたちに、だんだんと焦点が絞られていくようになったのです。
これから目指すビジョン
現在は、小学校の教員を退職し、放課後デイサービスという療育の分野で仕事をしています。
未就学児から小学6年生の子どもたち。それぞれが発達に何らかの凸凹を抱えています。筆者なりに、発達障害のことは勉強してきたつもりでしたが、あくまでそれは小学校レベルの話。療育は、幅が広く、深淵で、毎日学ぶことがたくさんの充実した日々を過ごしています。
療育についての知見や経験値を蓄積しながら、心理士の資格を取ろうと思っています。臨床心理士、公認心理士、作業療法士、言語聴覚士などの資格です。まだ、次の目指す資格を具体的に絞ったわけではありませんが、一つの資格を取って終わるつもりもありません。
一つのことに満足することなく、資格や実践を十分に積んだら、次の開拓。それを終えたらまた次。と足を止めることなく教育分野を極め続け、やがて、未就学児から成人まで、全てをサポートできるような、教育のエキスパートになりたいと思っています。
思い立ったら後先考えずに、すぐ行動してしまう筆者なので、これが絶対ではありませんが笑 教育を自分のワイフワークとする基軸はブレずにいようと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。また、教育に関する有益な情報、筆者の幼少期の発達凸凹面白エピソードなどを紹介していきますので、どうぞ、気軽に訪れて、閲覧してもらえるとうれしいです。
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